趙州和尚、因みに僧問う、「狗子に還って仏性有りや」。
州云く、「無」。
一 趙州狗子
無門の関門
「無門関」は、南宋の禅僧・無門慧開の手になる禅の公案集であり、禅者にとってのジャズスタンダードバイブルのようなものである。今のは忘れてください。さて公案というのは禅匠が弟子にあたえる問い、課題のようなものだ。それは逆説的であり超越的で、矛盾に満ちている。少し見てみよう。
二十一 雲門屎橛
雲門、因みに僧問う、「如何なるか是れ仏」。
門云く、「乾屎橛」。
雲門和尚はある僧から、「仏とはどういうものですか」と尋ねられて、「乾いたクソの塊じゃ」と答えられた。
という公案である。なるほどですね。何が?
二十九 非風非幡
六祖、因みに風刹幡を𩗺ぐ。
二僧あり、対論す。
一は云く、「幡動く」。
一は云く、「風動く」。
往復して曾て未だ理に契わず。
祖云く、「是れ風の動くにあらず、是れ幡の動くにあらず、仁者が心動くのみ」。
二僧悚然たり。
六祖慧能1はある時、法座を告げる寺の幡が風でバタバタ揺れなびき、それを見た二人の僧が、一人は「幡が動くのだ」と言い、他は「いや、風が動くのだ」と。お互いに言い張って決着がつかないのを見て言った、「風が動くのでもなく、また幡が動くのでもない。あなた方の心が動くのです」。これを聞いて二人の僧はゾッとして鳥肌を立てた。
という公案。ぼくはこの公案がけっこう好きで、眠れないときに思い浮かべたりしていた。そうするとすぐ眠れる。アホアホエピソードでした。
ところで、これは六祖・慧能が二人の僧を論破した話だと見るべきではない。編者の無門は「風が動くのでも、幡が動くのでもない。まして心が動くのでもない」と解説をくわえている。どうすりゃいいの?
五 香厳上樹
香厳和尚云く、
「人の樹に上るが如し。口に樹枝を啣み、手に枝を攀じず、脚は樹を踏まず。
樹下に人有って西来の意2を問わんに、対えずんば即ち他の所問に違く。
若し対えなば又た喪身失命せん。
正恁麼の時3、作麼生か対えん。」
香厳和尚が言われた。「人が樹に登るとする。しかも口で枝をくわえ、両手を枝から離し、両脚も枝から外すとしよう。その時、樹の下に人がいて、「禅とはいったい何であるか」と問いかけてきたとする。答えなければ問うた人に申し訳が立たない。そうかといって答えようものなら、樹から落ちていっぺんにあの世行きだ。さあ、そういう事態に直面した時、いったいどう対応すべきか」。
という公案である。禅のある種サツバツとした側面がよく出ている。答えなければお前は禅者ではない。答えれば死ぬ。さあどうすると迫られるのである。その瞬間に悟りがある。のかな?
さて、禅のことばは不合理で奇矯なものだが、決して抽象論には走らない。そのあたりが単なる神秘主義とは異なっている。禅が語ることはつねに具体的だ。最もそこから禅の真髄へと到れるかどうかは覚悟次第だが。お前にその覚悟はあるか。仏に逢うては仏を殺せ。祖に逢うては祖を殺せ。羅漢に逢うては羅漢を殺せ。父母に逢うては父母を殺せ。親類に逢うては親類を殺せ。始めて解脱を得ん。4……というのが禅である。アナーキーインザ南宋。
悟り
これらの公案はいわゆる悟りの境地をそのまま言い表したものであるという。だが、これは妙な形式で圧縮されているファイルのようなもので、われわれにはこれを解凍するすべがない。
この本の著者の無門慧開は、「趙州狗子」の公案に6年間取り組んだのち、昼食を知らせる太鼓の音とともに大悟した。臨済宗の開祖・臨済義玄は師匠の黄檗から棒で叩かれたり大愚から叱られたりしているうちに大悟して、そのあとは黄檗をブン殴ったり「喝ッッッ!!」と一喝したりやりたい放題している。黄檗はこれにたいへん満足したという5。悟りというのはほんとうによくわからない6。
古戦場から遠くはなれて7
二個の者が same space を occupy スル訳には行かぬ。甲が乙を追ひ払ふか、乙が甲をはき除けるか二法あるのみぢや
夏目漱石の弁
ところで、禅では「不立文字」といって経典などの文字で書かれた教えをあえて用いないことをよしとしている。では公案を用いるのはどうなのか。ぼくは禅者ではないので迂闊なことは言えないが、「不立文字」は言語の二元論的な側面を拒否するという意味であって、禅匠の生きた発言を記録して修行のたすけとすることまで拒否するものではないと思う。
ここでいう言語の二元論的な側面とは、記号的な体系――排除と選別の体系――を指す。ある場所にはひとつの記号しか書けないのだから、自ずからこの体系における表現は「はっきりした」ものになる。もっといえば血なまぐさい、野蛮な、現実のある断片しかとらえることができないものになる。とらえきれなかったものは捨てられる。ラカンはこのことを「ものの殺害」といった8。
記号が立ち顕れる以前の根源的なものは我々の手からこぼれ落ち、二者択一を迫る野蛮な理論が場を支配する。禅が扱おうとしているようないわゆる「東洋的」な9対象はこの体系にのせることができないのだろう10。
こんな人におすすめ
- 悟りたいという人
- 異常な小話をたくさん読みたいという人
- 南宋禅の第六祖。即身仏になったとかならないとか。
- 禅の開祖・達磨がインドからやってきた意図。禅の真髄。
- まさにその時。
- 「臨済録」にある。
- ここらへんの経緯はWikipediaにも乗っているが、かなりおもしろいのでぜひ読んでみてほしい。
- 悟りと魔境は区別がつかないという話もある。悟ったつもりが魔に魅入られてしょうもないところを堂々巡りしているという僧もいるのかもしれない。
- 小説から遠く離れて
- このあたりの話はソシュールにその端緒を求めることができよう。
- なんとも歯切れのわるい言い方である。ごめんなさい。
- この章の記述はおおむね蓮實重彦「反=日本語論 (ちくま学芸文庫)」による。