評論

ザ・ゲームに負けた

いい遊びをおしえよう。どうやらゼロ年代ごろに流行っていたようだが、「ザ・ゲームThe Game」というゲームがある。これがどういうものか知るには、ひとまずWikipediaの説明を読んでみるのがいいだろう。よく練られたルールはプレイヤーを飽きさせず、競技人口はいまも刻々と増え続けている。

彫刻はなぜ無限の絵でできていないのか

竹内外史が芸術についておもしろいことを言っていた。

空想から空想へ――社会主義の臨界点

 マルクスのよき理解者・エンゲルスによって書かれた「空想から科学へ」は、社会主義の入門書として名高い。その構成はよく練られていて、第一章は空想的社会主義者たちを賛美すると同時にその限界を示し、第二章で哲学・形而上学――とくに弁証法――について考察し、第三章では資本主義の死滅と社会主義の必然的な登場が語られる。

ミカドの禁忌――「金枝篇」より

フレイザー卿の「金枝篇」は、神話・呪術・宗教をめぐる壮大な書物である。そして、この本のどこがいけないかというと、あまりにもカッコよすぎるところだ。正確な研究書というのは往々にして泥臭く、深い滋味はあるけれどもあからさまなカッコよさはない。その点、金枝篇は「本からできた本」「安楽椅子の人類学」というそしりを免れえない。

9/11・ヴェイパーウェイヴ・冷戦

21世紀に幽霊が出る――ノスタルジアという幽霊である。存在しない過去に対する憧憬は何よりもうつくしい。それは過去にありながら(しかもほんとうに存在したかさえわからないのに)、魅力的な未来を生成する。「あの出来事さえなかったら、いつまでも楽しかったのに」と。その出来事は、たとえば、9月11日に起きた。

服装によって自分が何者であるかを悟られたくない

人に「なんで服なんか着るんですか? 」と真面目くさった顔をして聞いてみれば、その返答はおおかた「裸で歩いてると捕まるから」「変な人だと思われるから」といったようなものになるだろう。つまり、衣服は物理的な便宜をはかるためだけに着られているのではなくて、つねに何らかの意味をもっている。

去勢とテクスト――スコプツィを通じて

西洋は伝統的に「書かれたテクスト」を重要視してきた。書かれた法にしたがうことを受け入れ、それ以外の儀礼によって編まれるものは排除される。……というと唐突に聞こえるかもしれないが、この「テクストへの準拠」というのは現代人にもおなじみのものだ。

オタクについて語るときにわれわれの語ること

ところで、あなたはオタクだろうか。そもそもオタクを定義することはむずかしいし、ゼロ年代ごろとは状況が大きく異なっていて、「オタク像」というものが正体をうしない、拡散しつつあるのでこれは更に難しくなっている。果たして、このようなものの全体について語ることなどできるのだろうか。

エドワード・ホッパーの作品について

ぼくはエドワード・ホッパーの作品を見るとき、その脱臭されたセクシュアリティをどうしても嗅ぎつけてしまう。彼の作品にはいつもヒリヒリするような孤独感が漂っている。それは作中に性的な示唆があっても変わることがない。たとえば、「Office at Night(夜のオフィス)」を見てみよう;