詩とつながり

詩情に関する私の考えは大きく揺れている。今日の夕方、砂丘を歩いているとき、淡い紫色の蝶々が犬の糞の上にとまっているのを見たのである。

ルイ・ヴァレ『絵葉書』より
サハラ砂漠。from Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0

中原中也の「月」という詩にこんな一節がある。

あゝ忘られた運河の岸堤
胸に残つた戦車の地音
びつくかんの煙草とりいで
月はものうく喫つている。

中原中也「月」

 汚辱に耽溺しながら煙草を喫う月、というモチーフをそのままアンニュイにまとめ上げていてさすがの手腕である。初期の詩ということもあって、どことなく象徴派1の雰囲気を漂わせている。

 さいきん詩のよさがわかるようになりたいなと思っていて、上に挙げた中也とか宮沢賢治とかをぱらぱらとめくっている。それでわかるようになったかというと、もちろんわからない。そもそも「詩」とは何なのかさえよくわからない。
 しかしまあ、詩のもつ力について手探りで語ってみるぐらいはできるだろう。詩は、ことばの論理的なつながりや必然性をあえて断つことでふつうならたどりつけないところへ我々を導く。たとえば:

馬みたいな車と
車みたいなギターと
ギターみたいな女の子が欲しい

ゆらゆら帝国 「グレープフルーツちょうだい」

 この歌詞のどこがいいのかはぼくにはうまく説明できない。ただこれは言葉をつなげることで欲望の本質をついている。たとえば、あなたはいい馬がほしいとしよう。そして当歳馬のなかでも最上の馬を手に入れる。最初のうちはそれに満足するが、そのうちそれが車ではない・・・・・ことに気づく。理不尽な物言いだが、それが真実だ。
 逆に馬を手に入れてそれで完全な満足をえられるなら、あなたは正しく2馬フェチ・・・である。フェティシストというのは自分が何を欲しているかわかってしまっている人間だ。下着がほしいとか、自転車のサドルがほしいとか。この場合、その奥にある異性の姿ではなくもの自体へと興味が移っている。

Dodge Challenger, from WIkimedia Commons, CC BY 2.0

 こういった見解にたどりつくには、常識的な発言を重ねるのではなく、あえて変なもの・・・・を検討してみる必要がある。ここで「あえて断つ」ために、言葉と意味を分離するために、韻や音のちからが必要になってくるのだと思う。論理ではつながらないものをこじつけるために。

 ことばが意味をはなれてふらふらする感じはヒップホップの歌詞でよく味わえる。各々すきなパンチラインを思い浮かべてもらえれば十分だと思うが、ひとつ素朴な例を挙げてみると、ラップ黎明期のだらだらした名曲として有名なRapper’s Delightのパンチラインなんか“Everybody go, hotel, motel, Holiday Inn! ”である。ホーテル、モーテル、ホリデイ・イン3。どこか口に出してみたくなる魅力がある。

 ヒップホップの言葉には詩の言葉の特徴がよくあらわれていると思う。なぜかというとこれらの言葉はリズムと押韻を離れると力を持たなくなるからだ。「わたしの着ているTシャツにはインベーダーが描いてあります。それを撃ち抜くわたしの名前は晋平太です」と「Tシャツに並んだ、インベーダー、撃ち抜くぜ俺が晋平太4」では、あらわしている意味内容は同じでも、質感がぜんぜんちがう。リズムと押韻なしでは、これらはいい表現とはいえないだろう。やっぱりふつうなら通らないものを通してしまう力が詩にはある。
 同じくこのときの晋平太のリリックでいうと「この戦車、拙者が運転者」は会場を沸かせたが、その後で「拙者の時代に戦車ねえから」などと散々いじられている5。愛されてますね。

 もっといえば洒落しゃれや地口、早口言葉にもこういった性質はあらわれていると思う。英語の発音練習と早口言葉を兼ねたものとして
She sells sea-shells on the sea-shore
というのがあるが、よくよく考えてみると詩的な情景である。ちなみにこれはマザーグースらしい。何も海岸で貝殻を売ることはないのに。

  1. 中也はランボーの代表的訳者である。
  2. というのは、本来の意味で
  3. Holiday Innというのはアメリカではおなじみのホテルチェーンらしい。
  4. 晋平太が16万争奪MCバトルで鎮座DOPENESSに放ったパンチライン。
  5. ここらへんの経緯にはあまり詳しくないがMC漢と一悶着あったらしい。「運転者なんて言葉ねえから」とも言われているが、こっちは存在するようだ。