机の裏に地図を貼る

はじめに

 先日のWIREDにおけるやくしまるえつこのインタビューはすごかった。このインタビューでのやくしまるの発言はSF1に満ち満ちている。究極のプライヴェートとしての遺伝情報。人類をすげ替えるための偽装工作。冷蔵庫は家電の中でいちばん人間に近くて、固定電話の受話器はあやまたない。

この世界に”バグ”を生み出す。それはいつか、進化になる。──やくしまるえつこ|WIRED.jp

深夜の東京・六本木。「未来と芸術展」が開催されている森美術館で、やくしまるえつこの作品『わたしは人類』は、冷蔵庫の中で緑色に光っていた。冷蔵庫の中の微生物『わたしは人類』を展示するためには毎回、経済産業省大臣の認可をとらなければならない。決して危険なものではないとはいえ、既存の生態系にはない遺伝情報をもつ”新生物”である「わたしは人類」が外部に流出した場合、生態系を壊しかねないだからだ。既存…

システムとバグ

 やくしまるはインタビュー中で、「一定であること・仕組みがわかること」に対する強いこだわりを見せる一方、「バグ・特異点」に対する親近感を隠さない。この態度はべつだん矛盾しているわけではないと思う。
 まず前者について。インタビューの中で彼女は、人間のあいまいな感受性や表現について「最初からそういうものは妄想」だと言っている。この発言は、世界というのは個々人の展開するパラレルワールドが集まったものにすぎないから、それを超えて確実な接触を行うことはできない、という意味に捉えることができる。個人が作ったものは、それがたとえやくしまるの音楽であっても、パラレルワールドの境界を超えられることは保証されない。

 彼女が家電になりたいというのは、おそらく、その裏返しの言葉だろう。家電はその表現の無さ・・・・・ゆえに境界を超えることができるからだ。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」を見たときの感情は人それぞれ異なっていても、(彼女の言葉を借りるならば)「受話器を上げるとプーッと鳴る」ことを認めない人はいない。

Leonardo da Vinci (1452-1519) – The Last Supper (1495-1498)

机の裏に地図を貼る

 その一方で、やくしまるはバグを好んでいる。余計だと思われていたものが進化のきっかけになったり、世界に対する特異点として働いたり、そういったことに期待感を持っている。この嗜好を端的に言いあらわしたのが「机の裏に地図を貼る」という概念だろう。

ただ、何かのいたずらができればいいなとは思っています。小さいころ、よく外出先で、席についたテーブルの裏に、地図や暗号みたいなものを貼っておいたんです。基本的には、やくしまるにとって何かを世界に放つことは、そういう一種のパラレルワールドに対する“特異点”をつくるようなものです。いたずらをする感覚でやっています。

前掲のインタビューより

 これはぼくには、パラレルワールドへの干渉不可能性を超えるための賭け・・に見える。その不可能性は人の身には超えがたい。超えるために愛の詩を綴ってみたり、言葉を尽くせば尽くすほどそれは(逆説的に)どんどん不可能になっていく。この逆説を克服するためには、賭けをするしかない。誰に宛てるわけでもない地図や暗号を机の裏にそっと貼りつけるのだ。それはあっさりと剥がされてしまうのかもしれないし、誰かの人生に不可逆な影響を与えるのかもしれない。この賭けはたいへんローリスクで好ましいものに思える。

 これと類似した状況は遺伝子にもあるとやくしまるは言う。遺伝情報の中には意味がよくわからない配列があったりして、それがいつか進化のきっかけになるのかもしれないのだと2。役に立ちすぎても意味がないし、まったく役に立たないのはそれはそれで意味がない。絶妙なラインで滑り込んでいる彼らをやくしまるは「すごく尊敬しますね。真似したい。」と言っている。

 「役に立たない」ものを放置しておくことはいいことだ。文化は資源の余剰からしか生まれない。狩猟採集民は哲学をしないだろう。

世界の終わりでアイを叫んだけもの

──最後に、未来について聞かせてください。やくしまるさんの場合、歌詞のなかでは地球が滅んだり、人類は滅亡していますが、滅亡前の最後の人類はどういうものだと思いますか。
 愛し合っていてほしいです。プログラムの支配下で完全に効率化された生活を送っていたとしても、そこをはみ出して、そのプログラムを外れても好きな人と愛し合いたいとか、そういう人類の意地を見せていただきたいですね.

 厭世的とも取れる発言を繰り返しながら、インタビューの最後に至って愛を語る。この姿勢はかなりカッコいい、とぼくは思う。ぼくには愛について語る準備はできていないので、ジジェクのことばを引用してそれに代えるとしよう。

世の恋人たちは誰でも知っているはずだ。恋人への贈り物に私の愛を象徴させるには、役に立たない、どこにでもある、ありふれた贈り物でなくてはならない。そうしたものを贈るときにはじめて、その使用価値は不問に付され、贈り物が私の愛の象徴になりうる。

スラヴォイ・ジジェク「ラカンはこう読め! 」より
  1. これはもちろん「すこし・ふしぎ」のことです。
  2. このあたりがどの程度科学的に正しいのかはぼくにはよくわからない。科学的に正しくなければ意味がないというのも狭量な態度には思えるが、それを大声でいうのもまた憚られる。