彫刻はなぜ無限の絵でできていないのか

数学の本質はその自由性にある。

G.カントール

はじめに

The Pieta, Wikimedia Commons, by Juan M Romero, CC 表示-継承 4.0

竹内外史1が空間芸術2についておもしろいことを言っていた。

 数学の世界では、三次元は二次元にくらべてはるかに豊かな世界で、いろいろの面白い可能性をもっています。一方絵画と彫刻とを考えてみますと、絵画の方がはるかに豊かで内容に富んでいるように思います。
数学の場合と芸術の場合とでは、次元の役割がちょうど逆になっているような気がします。これは何故でしょうか。

数学的世界観―現代数学の思想と展望」 紀伊國屋書店 1982

 これは彫刻を絵画の下とみての発言ではない。そのことは彼自身も明言している。その主張を要約すると

 彫刻は三次元であり、さまざまな角度から鑑賞することができる。われわれの眼の構造からして、角度を固定すればそれは複数の二次元的な像を見ていることになるだろう。それに対して、二次元上に描かれる絵画はあるひとつの面からしか味わうことができない3。こう考えると、たとえ二次元の絵画が豊かな表現をしたとしても、彫刻は無限の二次元面をもっていてさらに豊かであるということになる。しかし現実はそうなっていない。

ということだ。
 彼はこの問題の回答として、次元の上昇につれて創作の自由度が制限されることを挙げる。つまりは、三次元の彫刻より二次元の絵画のほうが創作が容易・自由であり、それが創作技術の進歩をも容易にする……という主張である。たしかに、幻想的な光景や細かい描きこみを彫刻で表現することは困難さをともなう。いきなり漫画の話になるが、彫刻で「AKIRA」や「BLAME!」のような濃密な情報を表現することはできないだろう。「二次元的」な映画4における自在なカット割りのようなことも、それを「三次元的」な演劇5で再現しようと思うとなかなか難しい。こうして考えると、三次元の世界で三次元の物質や肉体を動かすことはつらいという話にもなってしまう6。一刻も早く基底現実を捨てて肉体を電子化したいものである。

 さいごのところは余談だった。一方、数学においてはこの次元問題は反転・・している。数学において、(イメージしやすいかどうかは別にして)扱う空間の次元が上がることはさほど困難を伴わない7。少なくとも、無限次元ベクトル空間の扱いが三次元ベクトル空間の扱いにくらべて無限倍たいへんだということはないだろう。そして、次元の大きさは一般に自由度をもたらす。たとえば、一次元上を点粒子が運動するようすは二次元の状態空間があれば表現できるが、三次元空間をうごく場合は状態空間は六次元必要になる8

このあと竹内外史は数学の自由性へと論をすすめていくが、それはまたの機会においておくとしよう。

有限と人間

「なにを言う、このおれはたとえクルミの殻に閉じこめられようと、無限の宇宙を支配する王者と思いこめる男だ、悪い夢さえ見なければ」

シェイクスピア「ハムレット」小田嶋雄志訳
ホルバイン「大使たち」。向かって左から鑑賞すると頭蓋骨があらわれる。

 無限にたくさんの二次元面をもつ彫刻は、なぜ無限に豊かではないのだろうか。上で竹内外史の解答をみたが、つぎにぼくの見方を少し述べさせてもらうと、これはそもそも人間の認識が”無限”を捉えられないからではないかと思う。人は無限に・・・細かいちがいを見分けていくことなどできないし、彫刻を360°各方向から鑑賞したとしても、8〜16方向程度のちがいを見出すことがせいぜいではないだろうか。

 上にいう無限が可算なものなのか、連続的なものなのかという新たな問題提起をすることもできるだろう。古典物理では「(この世界の)時間や空間は連続的であり、それは実数で表現される」ということが暗黙のうちに仮定されているように思う9が、このことは哲学的に自明だというわけではない。そもそも世界は離散的なものなのかもしれないし、また、世界が連続的なものであったとしても、われわれの認識するそれ・・・・・・・・・・・が連続的であるという保証はどこにもない。なんなら世界は複素数10や四元数によって記述されるべきなのかもしれない。

 ここから、無限の世界を有限の範疇に押し込むことが人間の限界だという結論を導き出すこともできるし、また有限の範疇に押し込むことができるのが人間の美点だと言うこともできるが、ぼくはどちらかというと後者の立場を取りたい。人間がフレーム問題と無縁でいられるのもこういう特性のお蔭ではないかと思う。

  1. 日本の集合論・証明論研究を方向づけた数学者。業績の数々と著書の大味さで知られる。ゲーデルと仲がよかった。ちなみにこの記事の最下部で紹介している「集合とは何か―はじめて学ぶ人のために」は、はじめて学ぶ〜と銘打っていながら終盤にはプロの集合論者も唸る記述が多数ある。
  2. ここでは音楽や文学のような非-空間芸術は語られていない。もっとも、このふたつが空間的要素をもたないのかということに関して疑いがないとはいえないが。
  3. もちろん斜めから鑑賞することもできるが、それは不完全な鑑賞とみなされるだろう。ホルバイン『大使たち』のように斜めからみることを意図された絵もあるが、このようなものは例外的だと思われる。
  4. スクリーンに映写されるものなので二次元的だといわれている。時間の要素をふくむので絵画とはまた事情がちがうと思われるが。
  5. 時間の要素をふくむのは映画と同様。
  6. たまに人生の大半は移動ではないか?と思えてくることがある。財布を忘れて駅から家まで戻っているときとか。
  7. もちろん四次元行列の行列式を手で求めるのがたいへんだとかそういう話はあるのだが、理論的には何次元でも同じようなものという場合が多いだろう。
  8. 古典力学において点粒子の運動のようすは1.位置 2.運動量 がわかっていれば計算できる。たとえば一次元の場合位置はひとつの変数\(x\)のみで表すことができるから、\((x,p_{x})\)の組がわかっていればよいことになる。ただし\(p_{x}\)は運動量。三次元の場合は\((x,y,z,p_{x},p_{y},p_{z})\)となる
  9. 量子力学ではものごとの離散的な性質がしばしば強調されるが、それがどれほど本質的なことなのかについてはぼくはよくわからない。勉強不足である。
  10. 量子力学では複素数が本質的に用いられているが、観測量は実数に限られており、ある意味「実数的」な世界観を保っている。