「バベルの図書館」ボルヘス

設定の人ボルヘス

伝奇集 (岩波文庫)

「バベルの図書館」は、すべての本が収められた図書館についての10ページほどの物語である。これは図書館で死を迎えつつあるひとりの司書1の手記として書かれている。図書館の構造は以下の通りだ。

  • 図書館は不定数の六角形の部屋のつらなりでできている。
  • その4辺は本棚で、2辺はホールにつながっており、ホールはまた別の六角形の部屋につながっている。
  • ホールには立って眠るための部屋、トイレ、螺旋階段、鏡が設置されている。

図書館の蔵書は以下のような体裁をとっている。

  • 一冊につき410ページ、各ページは40行、各行は80字の黒い活字。
  • 使われる記号は、英小文字、スペース、カンマ、ピリオドの25個
  • 題名は存在するが本の内容と対応していない。

作中である天才的な司書が指摘したところによると、図書館におなじ本は2冊ない。つまり、この図書館は25個の記号の組み合わせで表現可能なすべての本を所蔵していることになる。たとえば、未来の詳細な歴史熾天使の自伝ボルヘス著「バベルの図書館」図書館の詳細なカタログ何千何万もの虚偽のカタログこれらのカタログの虚偽性の証明あなたの死の詳細な記述それぞれの本のあらゆる言語への翻訳それぞれの本のあらゆる本のなかへの挿入、『弁明の書2』、この記事の英語訳ラテン語訳バスク語訳、等々。

だが図書館のこの豊穣さに反して、司書たちが手に入れることができる本はごくわずかである。たとえば、

 

  • M, C, Vの3文字だけがしつこく反復される本。
  • 単なる記号の羅列にすぎないが、最後から2ページ目に「おお時間、汝のピラミッドよ」と書いてある本。
  • 題名『くしけずられた雷鳴』
  • 題名「石膏のこむら返り」

など。おわかりのように、この図書館の蔵書のほとんどはでたらめな記号列にすぎない。「浄化主義者」たちは無意味な本の破棄を命じたが、それらの無意味な本とコンマひとつ、ピリオドひとつ、アルファベットひとつしかちがわない本が無数にあるのだからそれさえ無意味な行為にすぎない。

ボルヘス、1976年

「バベルの図書館」はここまでみてきたような設定と、それについての説明で成り立っているような短編であり、説明それ自体が作品になっている。この構図はどことなくSCP-Foundationにまつわる作品群と似ている。ボルヘスが書くSCPオブジェクト、すごくおもしろそうだな……。

司書社会

これは無意味な文字列と格闘する司書たちの話でもある。すべての司書たちは図書館の、無限の六角形のどこかにある本をもとめて「旅行」をするがそれは絶望的である。

司書のなかでも、神秘主義者たちは、無我の境地に達すると円形の部屋があらわれ、そこには四囲の壁をひとめぐりする切れ目のない背を持った、一冊の大きな本3が置かれていると主張した。

またある「地方4」の司書たちは、書物は何事も意味しておらず、これらに意味を求めるのは手のひらの雑然とした線による占いのようなものだと言った。不可解な書物たちは遠い昔の言語で書かれていると主張したものもいた。5。暗号だと考えたものもいる。

書物の人」という迷信も存在する。図書館のどこかに他のすべての本の鍵であり要約となる本が存在して、それを読み通したある司書が神に似た存在となったというのだ。書物の人は、それがもし実在するなら、図書館の司書たちに、自分でなくとも誰ががそれを成し遂げたのだという救済を感じさせる。

ランダム性と闘い続ける彼らのすがたはどこかギャンブラーに似ている。芥川は、

偶然即ち神と闘うものは常に神秘的威厳に満ちている。賭博者も亦この例に洩れない。

「侏儒の言葉」

と述べたが、あまりに確率の低い偶然と闘う司書たちもまたこの例に洩れないのだろうか。

有限の絶望的な巨大さ

「バベルの図書館」手稿

バベルの図書館の蔵書数は膨大だが、定義からしてそれは有限である6。だがに、これらの書物すべてに目を通すことは人間の能力をあきらかに超えている。そのため、作中で図書館はしばしば無限であると言及される。

この立場は数学におけるUltrafinitism(超有限主義、厳格有限主義)とよく似ている。これはEsenin-Volpin(エセーニン・ヴォルピン?)らによって提唱され、数学的に厳密ではないことを承知のうえでざっくりと申し上げると、「有限だとしても到達できない数がある」と主張するものである。たとえば宇宙の年齢に近いような数を10進表記することを考えたとき、1秒間に1つの数字を書いたとしても宇宙の終焉までに書き終わることはできないため、この数は「大きすぎる」。7同様に、バベルの図書館も人間には「有限だが大きすぎる」。

我々はしばしば無限について語ってみせたりするが、事実上の限界はもっと近くにあるということだ。自然数は無限に存在するというが、べつに途中の適当なところ(たとえば3那由多ぐらいで)止まっていても誰も文句などいわないのではないだろうか。これは冗談ですよ、もちろん。

ところで、作中で(図書館の中での)「古典的な格言」として「図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達の不可能な球体である」といわれているが、これはパスカルの手になる比喩である。ここにも数学。

バベルの図書館を体験する

ちなみに、バベルの図書館を再現したWebサイトが公開されており、作中の設定に従った書物を閲覧することができる。ここでアルファベットの羅列をながめ、司書たちの失望を追体験してみるのも一興ではないだろうか。

こんな人におすすめ

  • この世のすべての本を読みたいと思ったことがある人
  • 最近六角形の図書館をさまよう夢をみるという人
  1. 彼はこの図書館を「宇宙」と呼ぶ。
  2. ある人間の行為を弁護し、その未来についての秘密を蔵している本。弁明の書は実在すると筆者は述べているが、ある人間が「自分の」弁明の書を発見できる可能性はゼロにちかい。
  3. この円環的な本はすなわち神である。
  4. 図書館は無限に広いため、場所によって習慣のちがいがあることがこう呼ばれている
  5. しかし、先に述べたM, C, Vなどはどのような言語・方言にも対応しないだろう。図書館の中でも90階上に上がると言葉は通じなくなる、とはいえ。
  6. 蔵書数が有限であるのは間違いないが、構造物としての図書館が無限に広いかどうかについては議論の余地がある。
  7. 矢田部「大きな数としての超準数 : 超準数と厳格有限主義」を参照した。