空想から空想へ――社会主義の臨界点

 この二大発見、すなわち唯物史観と、剰余価値による資本主義的生産の秘密の暴露とは、われわれがマルクス・・・・に負うところである。社会主義はこの発見によって一つの科学となった。……

「空想より科学へ」岩波文庫 大内兵衛訳 p63
Friedrich Engels (1820 – 1895)

マルクスのよき理解者・エンゲルスによって書かれた「空想から科学へ1は、社会主義の入門書として名高い。その構成はよく練られていて、第一章は空想的社会主義者2たちを賛美すると同時にその限界を示し、第二章で哲学・形而上学――とくに弁証法――について考察し、第三章では資本主義の死滅3と社会主義の必然的な登場が語られる。
 エンゲルスの文章は、もちろん扇動含みではあるものの、とても巧みだ4。この本には人を社会主義に引き込むのに十分な力がある。しかし、その巧みな社会主義の展開は、第三章の最後の部分に至ってなんだかユートピアめいた破綻をむかえてしまうんである。見ていこう。

資本主義の死滅

Roberts loom in a weaving shed in 1835. Textiles were the leading industry of the Industrial Revolution, and mechanized factories, powered by a central water wheel or steam engine, were the new workplace.

 エンゲルスが指摘する資本主義の矛盾は、おおむね次のようなものだ5
 資本主義的生産の前の段階においては、人々は小農業や手工業を営み、自ら生産したものを自ら取得していたと考えられる。自分で作り、自分で取るという営みにはなんの問題もない。また、生産は主に自家需要6のために行われ、交換を前提とする「商品」の生産はまだはじまったばかりだった。
 だが蒸気機関等の作業機械の発明や、分業制によって、生産は個人の手仕事をはなれて社会的なものへと移り変わっていく。ものは、個人の作業場においてではなく、数百人、数千人が協同作業する工場において生産されるようになった。工場での生産は分業の原理に基づいておこなわれ、一人ひとりはあるものの一部分に関わるだけで、完成品は生産しない。「これは俺が・・作ったものだ」とは誰にも言えなくなったのである。このような動きはブルジョア階級7によって主導された。
 さて、ここにおいてひとつの矛盾が立ちあらわれる。生産は個人の手仕事ではなく、多人数による社会的なものになったにもかかわらず、その生産物は資本家個々人によって取得される。社会的生産の結果は、資本主義的に取得されてしまうのだ。
 また、生産は実体的な需要をはなれて放埒に行われるようになってしまい、恐慌がしばしばもたらされるようになった。恐慌は人間が資本主義的生産をじゅうぶんに制御できていない証拠である。

社会主義の成立(あるいは……)

レーニンとスターリン(合成写真といわれている)。

 これらの矛盾は社会主義の導入によってしか解決できないように思われる。もちろんエンゲルスの理路において・・・・・・・・・・・・、のことだが。社会主義の導入とは、つまりは先に述べた生産の社会的性格を承認し、その管理を資本家にまかせるのではなく、当の社会・・によって行わせることだ。
 いささか抽象的な物言いが続いたようだ。具体的にこの社会変革がどのように進んでいくかというと、まずはトラスト――同一産業部門の企業の、生産統制・・・・を目的とする連合――が登場する。これは計画生産的な、社会主義的な面をある程度もっているが、もちろんこれで足れりとするわけにはいかない。けっきょく、このような資本主義の名残のもとでは労働者はいつまでたってもプロレタリアート(無産階級)のままだというのは見やすい道理だ。
 さて次の段階としては、国有化がある。すなわち:

プロレタリアートが国家権力を掌握すると・・・・・・・・・・・・・・・・・・・それがまず生産手段を国有にするのである・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「空想より科学へ」岩波文庫 大内兵衛訳 p85

 生産力は資本家によってではなく、ひとまずは国家によって管理される。エンゲルスはこの二者による管理のちがいを、「暴風雨の時の稲妻の電気」と「電信やアーク灯として手なずけられている電気」に例えている8。まず国有化されるのは、郵便・電信・鉄道である9
 だが国有化は終着点ではない。このままではブルジョア独裁がプロレタリア独裁に変わっただけで、社会の構造が十分に変革されたとはいえないだろう。
 この「国家」がその後どうなるのかというと、単に「死滅」する。なぜか。国家というのはつまるところ外部からの攻撃に対して搾取を維持するための組織10である。国家が搾取する階級を代表するにとどまらず真に社会全体を代表するものになるならば、それはもはや必要なくなる。搾取の対象となる階級がそもそも存在しないからだ。国家の最後の仕事は、「社会の名において生産手段を没収する」ことである。ここにおいて階級は消滅し、人類は社会に翻弄される11存在ではなく、社会を制御する主人となることができる。……云々。

 さて。このようなエンゲルスの理路において何が書かれていない・・・・・・・かというと、第一に、階級が消滅したあとの社会の具体的な様子が描写されていない。たとえば、社会主義社会においては、いままで資本家が行っていた統制管理は「月給取12」によって行われるとされるが、これでは資本家の独裁が官僚主義の独裁へと変ずるだけではないだろうか。

René Girard

 また、社会主義社会において階級は消滅しすべての人間は「自由」になるとされているが、それでは、たとえば治安維持の役目はどのような人たちによって担われるのだろうか。「暴力」はどのように管理されるのか。ルネ・ジラールがいみじくも「世の初めから隠されていること」で述べたように、共同体の起源にはつねに暴力の問題がある。この問題の解決なしに、「自由」な社会などありえない。この本「空想から科学へ」をはなれて現実の社会主義国家に目を向けてみても、けっきょく共産党が権力を握るというのはよくあることで――よくあるというか、それがすべてのような感もある。

おわりに

 「空想から科学へ」についていろいろと批判を述べたが、この本が社会主義の入門書として好適であることには変わりない。「共産党宣言」と共に万人に一読をおすすめしたい。
 この本はホリィ・セン氏主催の読書会の題材として読み、いろいろとおもしろい議論をすることができた。ここで感謝の意を表したい13

  1. 記事中の引用は岩波文庫版によるが、もし購入を検討している方がいるならば大月書店版をおすすめする。本が大きくて読みやすいし、平易な翻訳になっている。
  2. 主にサン・シモン、フーリエ、オーウェンら。
  3. エンゲルス曰く。国家は人によって「廃止」されるのではなく、生産手段の国有化がおし進められた結果として、そうなるともはや抑圧的な権力は必要ないから、「死滅する」。もちろんこの意見に手放しで賛成することはできない。
  4. 第二章の最後で「マルクス・・・・」が傍点つきで登場するあたりは、ヒーローの到着を見る思いがする。冒頭に引用しておいた。
  5. これらはエンゲルスの意見を(比較的)忠実に書き直したものであって、ぼくがそう思っているというわけではない。念のため。
  6. 農村で、自宅や隣近所での消費、もしくは領主への貢物、といった程度の生産しか行われない……といったような社会がここでは想定されている。
  7. そもそもブルジョアとは何を指しているか。いささか戯画的な説明になって申し訳ないが、封建制度家での貴族・聖職者による支配を革命してつぎの支配階級になった裕福な商人や資本家たちのこと。
  8. 「空想より科学へ」岩波文庫 大内兵衛訳 p84
  9. ただし、国有化ならばなんでも社会主義的というわけではない。単に為政者の便宜をはかることを目的とした国有化ではなく、生産力の管理が資本家や企業の手におえなくなったときそれを必然的に引き受けるための国有化こそが社会主義的なものである。
  10. ひどいことを言うものである。このようなドライな見方は、後に出現するユートピア描像と好対照をなしていておもしろい。
  11. たとえば恐慌などのかたちにおいて。
  12. なんとも古めかしい訳語である。大月書店版はもう少しモダンな訳になっている。
  13. この記事が読書会全体の見解ということではない。念のため。