nostalgia
「女たちよ、泣くな。わたしは蜜よりも甘いものを知っている」
ウクライナにおいて死神を埋葬する儀式、「金枝篇」より
21世紀に幽霊が出る――ノスタルジアという幽霊である1。存在しない過去に対する憧憬は何よりもうつくしい。それは過去にありながら(しかもほんとうに存在したかさえわからないのに)、魅力的な未来を生成する。「あの出来事さえなかったら、いつまでも楽しかったのに」と。その出来事は、たとえば、9月11日に起きた。
9/11
「ぼくが思うに、ヴェイパーウェイヴには、9.11以前に存在していた古き良き世界のノスタルジアが深く関係してるんだ。80年代から90年代にかけて生まれた世代の、ノスタルジックな過去への逃避でもある。」
#2 ノスタルジックな過去への逃避とは?――猫シCorp.インタビュー

2001年9月11日、アメリカ同時多発テロでワールドトレードセンタービルのツインタワーが崩れ落ちたとき、ぼくはまだ小学生にもなっていなかった。父親が大騒ぎ2していた様子だけをなんとなく記憶している。
その後ぼくは何度かニューヨークを訪れる機会があった。直近では2016年になる。そのときにはもうグラウンド・ゼロ3は様変わりしていて、そこには西半球で一番の超高層ビル = ワンワールドトレードセンターが建っていた。悲劇の場所にもういちど、前よりすばらしいものを建て直すのがアメリカ人の生き様なんだなと感服した覚えがある。

ミレニアル世代の末端に位置するぼくは、見ての通り9/11に対してこれぐらいの感想しか持ちえないが、この出来事がたとえばヴェイパーウェイヴのアーティスト猫 シ Corp. にとってブレークポイントとして機能したということはよくわかる。猫 シ Corp. のアルバム「NEWS AT 11」は、9/11当日の朝のニュース番組の音声から始まるが、それはすぐさま途切れ、まるでテロなど起きなかったかのように心地よい音楽が流れはじめる。
先に引用したように、ヴェイパーウェイヴではノスタルジックな世界のモチーフが重要である。ふるいホームビデオ、ダイヤルアップ接続のインターネット、ショッピングモール、深夜のテレビ番組。これらのものは、ある切断点――それは人によっては9/11かもしれないし、リーマンショックかもしれないし、恐怖の大王が結局やってこなかったときかもしれないのだが――の向こう側にある。これらは「古き良き」あの日の風景を思い出させる。古きものがほんとうに良かったのか、確かめるすべはないのだが。
これらのものごとに対する感情は単なる郷愁ではなくて、存在したかさえ定かではないパラレルワールドに落ち込むような気持ちが伴っている。なつかしさというのは経験を思い出すことによる感情ではないのだろう。フロイトが言うように、「子供時代は、もうない」。人それぞれに切断点があって、その向こう側は靄がかかったように見えなくなっている。
かくのごとき偉大な力や存在については、あるいは生きながらえているものがいるのかもしれない……永劫の太古から生きながらえているのかもしれない……おそらく太古には意識が姿や形に体現していたのであって、進展する人類の絶頂期をまえに退いて久しいとはいえ……そうした姿はわずかに詩と伝説のみがうつろいゆく記憶をとらえ、それらを神々、怪物、ありとあらゆるたぐいの神話の生物と呼び……
アルジャーノン・ブラックウッド
ところで、ヴェイパーウェイヴのイメージを担う「A E S T H E T I C」――初期のビデオゲーム、マイコン、奇妙な日本語や全角英数字、ギリシャ彫刻、リゾート地らしく演出されたショッピングモール、キッチュなパステルカラーなどは、あの向こう側からやってくるものだ。ヴェイパーウェイヴを耳にするとき、懐かしさと同時に感じられる一抹の不安は、外部の不安にちがいない。
「外部」の不安、恐怖とはどういうことか。これを扱ったもので、最も人口に膾炙しているのはまちがいなくラブクラフトのクトゥルフ神話の体系だろう。彼の作品においてクトゥルフのような神々は人類史の以前にあったり、外宇宙のそのまた果てからやってくるものであって、「外部」を具現化したものになっている。人は普段それに触れることはないが、この禁断の彼岸はふとした瞬間に顔を覗かせる。たとえば、「クトゥルフの呼び声」の主人公フランシス・ウェイランド・サーストンは、大叔父の遺品である粘土板や支離滅裂な走り書きを整理しているうちに大いなるクトゥルフが太平洋上の孤島・ルルイエにて復活の日を待っていることを知ってしまい、知りすぎたことによって、大叔父と同じく死に追い込まれる。

ポスト冷戦
We wanted flying cars, instead we got 140 characters.
欲しいのは空飛ぶ車だったのに、かわりに手に入ったのは140文字だった。
ピーター・ティール

話を現代に戻そう。啓蒙主義に端を発する西洋のシステムは破綻を示しつつある。理性によって蒙は啓かれ、古き偏見は捨てられ、不合理は改められ、すべてのものごとは次第によくなっていく――そういったことを信じるのはもはや難しい。
つまるところ、これらはキリスト教の枠組みを他の野蛮な文化・宗教に与えるものだった。「表現の自由」「信仰の自由」「人権」「平等」といった概念は純粋に倫理的なものであるように思えるし、そこから宗教の臭いを嗅ぎ取ることはかんたんではない。しかし、実のところこれらも十分に宗教的な概念である。宗教が我々の前から消え失せたことなど一度もなかった。
たとえば、なぜ表現の自由がキリスト教的な概念なのかというと、そこには「表現は、国家や教皇のような裏付けなしには現実世界に影響を及ぼさない」という暗黙の前提が置かれているからだ。
聖書という書かれたテクストに対しては教皇が存在し、法律という書かれたテクストに対しては国家が存在する。テクストそのものは客観的なデータであって、それは解釈者が存在することによって実効的な力をもつ。つまり、ここではテクストは客観化されている。テクストの客観化などありえないのにだ!4
いま表現の自由について述べたが、信仰の自由についても述べてみよう。まずルジャンドルは:
その「信仰の自由」というのがまたとない西洋の武器なのですよ。「信仰の自由」ということで西洋人は何を言おうとしているのか? それは信仰が個人の自由意志の管轄に属するということで、それ自体がきわめて西洋的な概念に基づいているのです。私の知っているアフリカでは、誰も個人の意志で神を選んでいるわけではないし、それはいかなる意味でも私的な信仰ではありません。だから、「信仰の自由」というのは、一見公平な開かれた条件のように見えますが、それ自体すでにきわめて西洋的な枠組みであって、それを輸出すれば西洋は自らの概念装置を輸出したことになります。
ピエール・ルジャンドル。岩波書店「宗教の解体学」にある。
と述べる。われわれの、西洋のシステムは宗教ではない中立的なものなのだから、遍く地球の人民はそれを受け入れるべきだ――という、グローバル化の(現実に暴力を伴うかにかかわらない)暴力的な側面がここには現れていると言ってよいだろう。

ルジャンドルのこの発言の例証として、アステカを見てみよう。アステカは征服者エルナン・コルテスによって1521年に征服されたが、コルテスはアステカの君主モンテスマに対ししばしばキリスト教への改宗を迫った。いわく、われわれが信じる神こそが唯一のものであり、あなた方が信じている神々は実は悪魔なのだと。
しかしモンテスマは、この発言をうまく認識することができなかった。アステカの人々にとって、世界は(「われわれが信じる」をつける必要などない)神々によって支配されており、アステカ人はアステカ人のためだけではなくて世界のために人身御供の儀式を行っていた。生贄を捧げなければ太陽の運行が乱れ、世界が滅びるからである。彼らにとって、信仰は選ぶことができるものではなくて、ある意味で強いられるものだった。よって、彼らには異教の存在する可能性が認識できなかったし、改宗も5不可能だった。
一方キリスト教徒たちは新大陸のアステカ人とはちがっていて、たとえばイスラームのような「異教」と触れることが多々あったから、対立しあう複数の宗教が存在するというたしかな認識をもっていた。改宗は可能だった。
かなり長いあいだ脱線していたようだ。結局現代においては、西洋――つまりは(世俗化した)キリスト教と資本主義のコンビ――が倒れる様を想像することがかなり難しくなってしまった。上で「啓蒙主義以来つづく西洋のシステムは破綻を示しつつある」――と述べたが、そうはいっても、いつ破綻するのかはさっぱりわからないのである。ジジェクいわく「資本主義の終わりより、世界の終わりを想像する方がたやすい」。
冷戦期には、資本主義陣営に対するあからさまな対立項としてソ連などの社会主義陣営が存在した。つまり、資本主義以外を考えることができた。だが、ソ連の解体以降、資本主義の終わりを考えることはほんとうに難しくなっている6。
資本主義のオルタナティヴとなる思想はあるのだろうか。資本主義の人間破壊的なプロセスを極限まで押し進めることでそこから脱出しようとする加速主義などが提案されてはいるものの、多くの人はこれを真に受けることはできないだろう。

ところで、アメリカ合衆国大統領ドナルド・トランプが今まで掲げてきたスローガンは「Make America Grate Again」だが、この標語の射程はレーガン政権以前までさかのぼる。つまりは、「ノスタルジックな過去への逃避」である。ところで彼は、2020年の大統領選挙に向けて「Keep America Great」というスローガンを使い始めた。過去は固定され、資本主義は終わらないのだろうか。実際のところそうなのかもしれないが、資本主義以外の何らかのグランドビジョン――社会主義でも加速主義でもいいのだが――がなければ、我々は憂鬱になってしまう。何かが描かれなければならない。
追記(2021/02/15)
ドナルド・トランプはけっきょく二度目の大統領選に破れた。だがこれで人々の過去への逃避が終わったわけではなく、むしろQAnonを信奉する人々のような陰謀論者が台頭し、現実と彼らは次第に切り離されつつある。不穏なことに、彼らは外部の存在ではなく、むしろ我々の隣人である。
参考文献
- 木澤佐登志「ニック・ランドと新反動主義」
- 増田義郎「古代アステカ王国」
- 佐々木中「夜戦と永遠」
- H.P.ラヴクラフト、大滝啓裕「クトゥルー〈1〉 (暗黒神話大系シリーズ)」