秋の夜が落ちて、星が光りはじめたら、わたしは最後の言葉を言おう――
「蒼ざめた馬」は、19世紀後半から20世紀初頭にかけてロシアでテロを指揮した1男・サヴィンコフが筆名ロープシンで発表した小説である。小説とはいっても多くの部分――登場人物、テロ行為の数々――などは現実に基づいている。主人公ジョージ2は素朴に考えればロープシン本人であろう。3
たいくつな芝居小屋
この小説で展開されているのは、ロープシン本人の言葉を借りていえば「人形芝居」にすぎない。
「あなた、少しはあたしを愛してるんでしょうね」「きみは、キリストのことを考えたことがあるか?」「射つんだ……」「ワーニャ、キリストは殺すなかれと言っている」「それはスメルジャコフだ」
主人公と仲間たちはある総督4を爆弾で殺害するために行動している。彼らが話すことはたいてい同じようなことで、キリストや聖書、恋や愛について、そして爆弾や大砲、テロの計画についてだ。 主人公ジョージにとってはこれらは虚ろに聞こえる。彼は自分自身と自分の行為との間に不思議な距離をおいている。彼はあるときには驚くほどの無関心さを、またあるときにはひどい頑固さを見せるが、それはすべてが芝居に過ぎないからである。道化人形がどうなろうと、彼には関係のないことだ。
張りつめたテロル
ではこの虚ろな作品を何が支えているのか。その答えは、作中の登場人物がみなテロリストであり、筆者のロープシンもまたテロリストであるということに集約される。思想のために人を殺し、またそのために死刑台へ上ることをいとわない者、ロシアの寒々とした闇の中を爆弾を抱えて彷徨する者が発する言葉にはたしかな重みがある。神のもとでの殺人は許されているのだろうか。ひとはどのように愛を告げるべきなのだろうか。これらの「よくある」問題は、彼らの覚悟のもとでふつうとは異なった輝きを見せる。
率直にいえば、カッコいいのである。テロリスト。
また、ロープシンの考えは主人公ジョージだけに反映されているわけではないことにも注目したい。作中にワーニャという人物が登場する。彼はシベリアの湿地帯の底なし沼で神を直覚した男であり、しきりにキリストや神のことを口にし、大義のためであっても子供はテロルに巻き込めないという。ジョージはテロルの結果だけを考えており、ワーニャは過程に目を向ける。 これは作中においては別の人間どうしの対立であるが、筆者ロープシンの内面においてはこれらふたつの考えがともにあったと考えられるだろう。5つまり、ジョージとワーニャはともに筆者ロープシンの部分的な像となっている。ロープシン=サヴィンコフは、純粋なテロの実行装置というだけでその一生を終えることはできなかったのである。
「視よ、蒼ざめた馬あり、これに乗る者の名を死といい、黄泉これにしたがう……」
ヨハネ黙示録、六章八節
エルナ/エレーナの悲劇
最後に、作中で描かれているふたりの女性、エルナとエレーナに触れておきたい。ロシア語ではどの程度ちがうのかわからないが、少なくとも日本語訳では似通った名前をもつこのふたりは、ともに主人公ジョージと深く関係している。
エルナは爆弾作りを担当しており、ジョージのことを愛しているが、愛されない。
エレーナはテロとは関係しない女性であり、人妻であるが、ジョージに愛される。
このふたりはコインの裏表というほどかけ離れた存在ではなく、むしろ重なって見える。ジョージ自身、このふたりが重なりあっているにもかかわらずこれほど違った扱いをすることになんらかの分裂を感じていることが随所にうかがえる。
また、エレーナは「言葉」「法」を知らない人間であることも見逃せない。
どうして人間はいろんな文字を書いたり、文字から言葉をあみだしたり、言葉から法(きまり)をつくったりするのかしら?図書館はこんな法でいっぱいなのね。生きてはならない、愛してはならない、考えてはならないって。一日一日に禁止事項があって……なんて愚かでこっけいなことでしょう……なぜ私はひとりの人だけを愛さなくてはならないの?言って、なぜなの?
幾人もの女を愛してきたジョージにとってこれは「わたし自身の言葉」であるが、それがエレーナの口から発されたとき、法は、タブーは、破壊されてしまう。自分が散々犯してきた法をあらためて犯すものがあらわれたとき、彼は自分の罪を鏡写しに知ることになったのだろう。
こんな人におすすめ
- テロリストに憧れているひと
- 冷たいロシアの空気を嗅ぎたいひと