愛の技巧? つまり、吸血鬼の気質にアネモネのつつしみをくっつけることだ。
シオラン
ぼくはエドワード・ホッパー1の作品を見るとき、その脱臭されたセクシュアリティをどうしても嗅ぎつけてしまう。彼の作品にはいつもヒリヒリするような孤独感が漂っている。それは作中に性的な示唆があっても変わることがない。たとえば、「Office at a Night(夜のオフィス)」を見てみよう;
この作品には計算されたどうともとれなさがある。わずかに吹きこむ風が書類とおぼしき紙を床に落とし、女のボディラインを強調する。女が紙を拾い上げ、男に渡す。そのとき……何かが起きるのだろうか? 机に向かう男は、女に言いしれない劣情を抱いているようにも見えるし、まったく無関心であるかのようにも思える。さまざまなものが描かれているが、何ひとつはっきりしない。
「Eleven A.M. 」では孤独の傾向がより明確にあらわれる。この絵にはヌード2の女性が描かれているが、その性は巧妙に削ぎ落とされている。彼女は、沈鬱な赤色のランプと、同じぐらい沈鬱な濃紺の肘掛け椅子が置かれた部屋に閉じ込められていて、その蒼白い肉体は行き場をなくしているようだ。窓から優美にそそぐ光3もどこか遠いもののように感じられる。
例外的な作品として「Girlie Show」を挙げよう。ここでは女性のヌードが(珍しくも)輝かしいものとして描かれており、女性は堂々たる表情でかたちのいい胸を観客に見せつけている。だがこの絵でさえ、伴奏の男の顔には生気がなく、観客もどこか遠巻きに彼女を見つめているようで熱気は感じられない4。
女性性を押し込めようとしているのにふとした瞬間それが漏れ出てきてしまう、生臭さの予兆、それが彼の絵の魅力のひとつではないかと思う。もちろん、これはかなり偏った見方ではあるけれども。
怖い絵
ぼくはホッパーの作品を――率直に言って――怖いと思っている。
「怖い」とされる絵は世の中にたくさんある。だが、それらの多くは巨大化させたり増殖させたり歪めたり癒着させたりといった象徴的な操作の組み合わせにすぎなかったりするし、何よりそこからは性に関わる欲望や観念・不安・暴力・死といったおなじみの人間臭い感情が透けてみえることが多い。
しかし彼の作品には、そのようなものの直接的な表現はほとんど見られない。すべては注意深く押し込められている。だが単に押し込めているだけではない。無理に抑圧するだけでは、逃げ場をうしなった衝動が爆発する。だからここで取られているのは飼い殺し的な戦略で、ホッパーは人々を抹殺してしまうのではなく、ていねいに場に誘い込んだうえで、彼らを孤独のうちに切り離して役に立たないものにしてしまう。
ホッパー当人はそんなこと考えてもいなかったかもしれないが、ぼくはあからさまに恐怖を煽るような絵よりも、彼の絵のほうがよっぽど怖いと思う。エスと戦い続けるタフな策士の描く絵だ。
- 彼の作品についての記述は、https://www.edwardhopper.net に負うところが多い。
- よく見るとフラットシューズを履いている。
- つねに言及されることだが、ホッパーの光の描写は秀逸である。その大胆な構図とあいまって、画家にこう言うのはなんだか失礼な気もするが、映画的な情緒がある。
- 観客の中にはホッパー本人がいるという。いちばん右の人物だろうか?