I have often said that I wish I had invented blue jeans: the most spectacular, the most practical, the most relaxed and nonchalant. They have expression, modesty, sex appeal, simplicity – all I hope for in my clothes.
私はしばしば言ってきました。ブルージーンズを発明したのが私だったらよかったのに、と。華やかで、実用的で、リラックスできて、気取らない。あれは表現力を、つつましさを、セックスアピールを、シンプルさを持ち合わせています。すべてわたしが自身の手がける服に望んでいるものです。
イヴ・サン=ローラン、New York Magazine (November 28, 1983), p. 53.
人に「なんで服なんか着るんですか? 」と真面目くさった顔をして聞いてみれば、その返答はおおかた「裸で歩いてると捕まるから」「変な人だと思われるから」といったようなものになるだろう。つまり、衣服は暑さ寒さや外傷をふせぐという物理的な便宜を得るためだけに着られているのではなくて、つねに何らかの意味をもっている。服を着ることは、法律をまもっていること、人格がまともだということを意味している! というのはいささか当たり前すぎるかもしれないが、他にもさまざまなレベルにおいてこれはあらわれる。
たとえば、世界的に、国家元首や王族が出席するような式典においてはモーニングコートや燕尾服1が着用されるのが通例である2。その着こなしは細部にわたるまで細かく規定されており、その必然性のなさにもかかわらず、規則を破ることはゆるされない。なぜ服の裾がこんなかたちをしていなければならないのか、なぜズボンは黒とグレーのストライプでなければいけないのか、といった疑問に物理的な必要性から答えることは不可能であろう。このような礼服はその些細なディティールにおいて、儀礼として機能している。
つまりは、衣服の大きな使命は、何かを表象することだ。暑さ寒さをふせぐことや危険から身体をまもることももちろん重要にはちがいないのだが、これらはある意味で二次的なものであろう。よほど過酷な環境でない限り、衣服の象徴的な機能は物理的な要請よりも重視される。
衣服の表象効果について、さらに実例をあげて説明しよう。ファッションにはさまざまな型、ジャンルがある。あるタイプの服装をすることはその人が所属している集団を示すことになる。スーツを着ていればサラリーマンだと思われるし、セーラー服を着ていれば女子高生だと思われる3。集団は仮想的なものでもよく、その場合服装は、その人間がダンサーなのか、デザイナーなのか、ラッパーなのか、バイク乗りなのか、またはサーファーなのか――そういったことを判断する手がかりとして機能する。
脱個性化
しかし、衣服によって他人に予断を与えたくないという気持ちもわれわれは同時に持っている。それは「わたしは自分のために服を着ている。異性に/社会に評価されるために着ているのではない」といったような言明によって代表される。ノームコアといわれたようなファッション界の動きも、これの非-好戦的な表現であったのではなかったか。「私はふつうの服を着ています。私を評価しないでください」とでもいったような。もっとも、ノームコアという語には手垢がつきすぎてしまったきらいがあるのでこれ以上の言及はさけよう。
ふつうの服を着るにはどうしたらいいのだろう。あらゆる衣服は文脈や来歴をもっており、そこからは逃れがたい。たとえば、デニムパンツ(ジーンズ)は現在いかにもふつうの服となっているが、当初は作業着として設計され、ときには反抗的な若者の象徴として機能し、ベルボトムジーンズがヒッピームーブメントの象徴となったこともあった。どこかでそれがふっと消え失せて、ふつうの服になったのだろう。
だがデニムパンツがいつまでもふつうでいられたわけではない。たとえばあの、黒のタートルネックにブルージーンズというファッションは確かにふつうだったかもしれないが、今やノームコアだ、決断を減らすためのすばらしいファッションだ、というような意味を持たされてしまった。「ふつうの服」「無個性な服」というのは動的な概念であって、それを求める旅程には終わりがない。