心を解き放つんだ。入り口までは案内するが扉は君自身で開けろ1。
映画「マトリックス」モーフィアスのセリフ。訳は字幕(Netflix)による。
はじめに
いい遊びをおしえよう。どうやらゼロ年代ごろに流行っていたようだが、「ザ・ゲーム」というゲームがある。これがどういうものか知るには、ひとまずWikipediaの説明を読んでみるのがいいだろう。よく練られたルールはプレイヤーを飽きさせず、競技人口はいまも刻々と増え続けている。
さて……
Wikipediaの記事は読んでもらえただろうか? もし読んだなら、あなたはザ・ゲームに負けたはずだ。おめでとう。
ぼくがこのゲームにはじめて負けたのは2019年の頭ぐらいの話だ。その後も2、3回負けた気がする。そして8月にまた負けたのでこの記事を書きはじめた。執筆の間中ずっと負け続けることになるので、なんとも損な行為だ2。
ザ・ゲームのルール
ザ・ゲームのルールについては諸説あるが、ここでは LoseTheGame.net のものを参考にしよう。以下に上記サイトの「What is the Game?」の翻訳を掲載する。
- あなたはザ・ゲームをすでにプレイしている。
- あなたを含む全世界の人間は、すでに、今までも、これからも、ザ・ゲームに参加している。プレイヤーがこのゲームに気づいている必要はないし、参加についての同意の必要もない。
- ザ・ゲームについて考えるたび、あなたはザ・ゲームに負ける。
- 敗北は一時的なものにすぎない;ザ・ゲームのことを考えていないとき、あなたは負けることをやめている。ザ・ゲームの目的はその存在を忘れることだ。健闘を祈るよ。
- ザ・ゲームに負けたら、あなたはそのことを公開する義務がある。
- あなたがザ・ゲームについて考えるたび、つまりは負けるたび、そのことを言わなくてはいけない。これは3破ることが可能なルールだが、こんなところでインチキをする意味はあるかな…?
そうだ。まだザ・ゲームに負けたことを友達に知らせていなかったひとは、ぜひ
ザ・ゲームに負けた Click To Tweetとツイートしてみよう。
シロクマとパンダ
さて。ザ・ゲームに勝つ4唯一の方法は、ザ・ゲームのことを考えないことだ。これはたいへんむずかしい。言葉遊びのように聞こえるかもしれないが、「〇〇を考えない」は「〇〇を考える」という主張の打ち消しで、つまりすでにその主張を思い浮かべてしまっている。それを脳からぬぐいさることはむずかしい。
ザ・ゲームの起源としてしばしば参照されるのはトルストイである。彼のふるい伝記5を見ると、彼が兄弟と「部屋の隅に立って、シロクマのことを考えない」という遊びをしていたことがわかる。この遊びはなかなか奥深い。たとえば野矢茂樹が「『論理哲学論考』を読む」で述べていたことを引いてそれを説明してみよう。現実世界に否定はないのだ。
否定がなぜ生じるのかを考えてみよう。
野矢茂樹「ウィトゲンシュタイン 『論理哲学論考』を読む」ちくま学芸文庫 p102
「虚心坦懐」というのもいい加減な言葉だが、まあ虚心坦懐に現実を眺めたとする。そのとき、否定ということが消失してしまうのである。机の上に本がある。外を人が歩いている。どこかでセミが鳴いている。すべては肯定的事実でしかない。どうして否定ということが生じるのか。単純に言って、われわれが何かをそこに期待するからである。テーブルの上にパンダがいるという事実の可能性を把握し、「テーブルの上にパンダがいるかもしれない」と思う人だけが、「テーブルの上にパンダはいない」という記述を与えるだろう。ということは、言語をもち、世界の像を作り、そうして、可能性へと扉が開かれている人だけが、否定を捉えうるのである。すなわち、否定とは現実世界に存在する対象ではない。
そう、否定とは現実世界に存在する対象ではない。それはおそらく正しい。では、否定はどのように形式的に扱えばよいのだろうか。それは一般には、全体の中であるものを考えたとき、それに対するあまりとして取り扱われる。
たとえば
{ガルバ,オト,ウィテリウス}
「ガルバでない」
というのは
{オト、ウィテリウス}のどちらかだ
という言明だと考えることができる。
だから、ザ・ゲームに勝つためには、ザ・ゲームを取り除いた世界の残りの部分のことだけを考えていればいいわけだ。しかし「ザ・ゲーム以外のことを考えよう」と思ったとき、あなたはすでにザ・ゲームに敗北している。ままならないものである。
ザ・ゲームの感染
ザ・ゲームの感染力の強さは、不治の病いをもたらすマインド・ウイルスに喩えられるほどだ。ミームといってもいい。このゲームを本気で遊んでみる――そう、Plague.Inc 8のように――ことを考えたらどうなるだろう。
メディア・インターネットが全球を覆った現在、もし本気でそうしようと思うならば、全人類を敗北させることはたやすいように思える。ザ・ゲームの感染力はあまりにも強いからだ。生き残るとしたらどのような人々だろうか。ふつうの病原体のパンデミックならば、南極観測隊が生き残るのかもしれないし、シベリアの漁師が生き残るのかもしれないが、ザ・ゲームの感染において地理的な隔離は有効な防御とはならないだろう。アマゾンやインド洋の未接触部族9とか、そもそもザ・ゲームを理解しない、抽象的なゲームを遊ぶことができない人々は有力な候補かもしれない。これは知能の高低というはなしではなくて、単に世界観の問題である。
ここまで述べてきたように、考えて対策をとることが不可能になっているのがこのゲームのニクいところで、細菌やウイルスに対して練りに練った戦略で防疫をこころみるようなことがここではできない。考えないことが最良の作戦である。
いくつかの戦略と現実
考えないことが最良だと言ったものの、以下のようなことは(もしかしたら)可能かもしれない;
- すでに感染してしまった我々から隔離された聖域をつくって、そこで汚染されていない人々を育てるという戦略は可能だろう。なんだかSFごころを煽られる設定だ。さしずめ「汚染」以前の人間を保護しています、とでもいったような。
- たとえば人の認識をロック10してしまう技術が開発されればどうなるだろうか。ザ・ゲームという言葉そのものを認識できないようにしてしまえば……。妻を帽子と間違えた男、なんていうのも世の中にはいるぐらいだし、実現の可能性はあるだろう。
幸いなことに、現実にはザ・ゲームが全人類に感染するような事態にはなっていない11。世界の総人口がこのゲームに対して大きすぎるのか、それともみんなマインド・ウイルスに関わりあっているほど暇ではないのか。
おわりに
ところで、ここまで述べてきたような性質から、ザ・ゲームのプレイ人口を調査することは不可能であろう。「あなたはザ・ゲームを知っていますか? 」なんてマヌケなアンケートを取るのだろうか。もちろん答えは
- 知っていた(そして負けた)
- 今知った(そして負けた)
のどちらかだ。
ここにおいて固定された問題系とそれを外部から調査する者、という図式は崩壊していて、誰もが否応なしにこのゲームに巻き込まれている。この暴力性をぼくはなんだか好ましく思う。
- 原文は、”I’m trying to free your mind, Neo, but I can only show you the door. You’re the one that has to walk through it.”
- 本文ではさらっと流したが、このような状況はいささか哲学的な難問へと我々をいざなう;ザ・ゲームについて考えているが「ザ・ゲームについて考えることは負けることだ」ということを忘れているとき、我々はザ・ゲームに敗北しているのだろうか?
- 上のふたつとは異なって
- そもそもこのゲームに「勝てる」のかというのも微妙な話で、上に挙げた三条件には勝利条件が明記されていない。だから「勝つ」という言葉づかい自体、ザ・ゲームのひとつのヴァリアントについての話ということになる。厳密には。
- Paul Biriukoff “Leo Tolstoy, his life and work; autobiographical memoirs, letters, and biographical material“
- おなじみのローマ皇帝ズッコケ3人組である。ネロの死後、68〜69年のローマ内戦で次々と皇帝に擁立され散っていった人たち。3人とも在位期間は1年たらずで、特にオトは3ヶ月ほどで自害している。この内戦はウェスパシアヌスの到来によって終結した。
- この例を挙げたのは自分なのだが、そんな世界はとても嫌である。
- 伝染病を作成し、世界を滅亡に追い込むことを目的とするスマホゲー。いきなり致死性を高めすぎるとキャリアがいなくなって世界中に感染させることができなくなるとか、病原体サイドの基本的な戦略が学べる。
- いままで”文明”に触れたことがない人々。ものごとのグローバル化にともなってそのような人々は著しく減っている。
- 念頭にあるのは胎界主の認識ロックである。
- ぼくが知らないだけでもうそうなっているのだろうか?