ミカドの禁忌――「金枝篇」より

しかし、秘密を暴かれるべき迷信が他にも存在する。……これら異端の宗教においても、神聖とされている人間が殺されるのである。

フィルミクス・マテルヌス「異教の過ちについて」第六章

神聖なる迷信

ジェームズ・フレイザー卿

 フレイザー卿の「金枝篇」は、神話・呪術・宗教をめぐる壮大な書物である。この本はいけない本だ。あまりにもカッコよすぎる。往々にして、正確な研究書というのは泥臭く、深い滋味はあるけれどもあからさまなカッコよさはない。その点、金枝篇は「本からできた本」「安楽椅子の人類学」というそしりを免れえない1し、その理路には飛躍が多く、語られることはどこか恣意的だ。この本は、あまりにも物語的でありすぎる。つまりはカッコよすぎる。
 だが「金枝篇」ほどいい本はこの世にないともぼくは思う。先に挙げた欠点は、見方によっては美点へと変わる。膨大な事例の蒐集、恐るべき博引旁証は読者を圧倒し、フレイザーの構築した固有の世界へと読者を誘う。フレイザーの挙げる事例たちは、それをもとにしてひとつの短編小説でもかけそうなぐらい魅力的だ。たとえば:

かつてフィンランドの魔術師は、無風で動けなくなった船乗りに風を売った。風は3つの結び目に入れられており、第一の結び目を解けば穏やかな風が起こり、第二の結び目を解けば強風が起こり、第三の結び目を解けばハリケーンがやってきた。
……(中略)……シェトランド諸島2の船乗りたちは、今でも、嵐を制御できるという老婆たちから風を買う。

ちくま学芸文庫「初版 金枝篇 上」第一章第二節 p48

……(前略)……王の生き方はつぎのとおりである。十二年が終わると、この祝祭日に無数の群衆が集まり、多額の金を費やしてブラフマンに食物を捧げる。王は木の足場を作らせ、これを絹の垂れ幕で覆わせる。この日王は貯水池に沐浴に行くが、これは音楽も奏でられる大きな儀式となる。その後王は偶像のもとへ行き、これに祈りを捧げ、足場に登る。そして万民が見守るなか、研ぎ澄まされたナイフを取り出し、まず鼻、つぎに耳、そして唇、といった順であらゆる身体の部位を切り落とし、自分でできる限りの肉体を切り落とす。多くの血が流れて気を失ってしまわないうちに、切り取った部位は大急ぎで投げ捨てられ、最後に自ら喉を掻き切る。こうして王は自らを偶像のための生贄とする。そして、誰であれつぎの十二年間王として君臨し、このように偶像への愛に殉じたいと望む者は、この場でこの光景をじっと見据えていなければならない。

ちくま学芸文庫「初版 金枝篇 上」第三章第一節 p311-312

といった調子だ。金枝篇からの刺激的な引用はいくらでもできてしまうので、このあたりにとどめておくとしよう。

ターナーの「金枝」。以下に述べる伝説の舞台が描かれている。

 さて「金枝篇」は、あるひとつの謎を解くために書かれている。その謎というのはこうだ。
 ネミ3の祭司職、「森の王Rex Nemorensis」の地位に就くにはいくつかの手続きが必要だった。まず、逃亡奴隷だけがネミの聖所に生えているある種の木の枝――金枝を手折ることをゆるされている。これに成功すると、彼には現職の祭司と決闘する権利が与えられる。祭司を殺すことができれば、彼こそが新たな「森の王」となる。
 「金枝篇」は、完全なもので13巻にもなる壮大な書物4だが、その全てはこの儀礼の理由を説明するためにある。フレイザー卿はヨーロッパからアフリカ、インド、東南アジア、オセアニア、アメリカ大陸まで、本論を圧倒する量の実例を挙げることでこれを証明しようとする。これらの実例には日本のものも含まれている。この記事で「金枝篇」全体について語ることは到底望めないので、ひとつこの、日本のミカドについての箇所を見ていこう。

ミカドとタブー

丑の刻参りは共感呪術の一種。

 「金枝篇」では、人間神としての力をもつ王はその振る舞いによって自然や宇宙に影響を与える力があるとみなされる、と論じられる。さて人間神とは何を意味するのか。ここでは、人間が自然に対して、類感・類似によって影響をあたえることができるということが仮定されている。たとえばロシアのある地方では、雨を望む場合、三人の男がモミの木に登ってヤカンを叩いたり5水に浸した小枝を振ったりして、嵐を再現することで雨をもたらそうとしたという6。これがフレイザーのいう共感呪術、類感・類似による呪術である。どのような人間もこの共感呪術を行使することができるという仮定のもとで、それのうち最大の力をもつものとして、その一挙手一投足が自然の運行に影響するほどに自然と共感している人間神的な王、という存在があるわけだ。

 フレイザーによると、「ミカド」もしくは「ダイリ7」とは「神々や人間を含んだ全宇宙を支配する、太陽の女神の化身」「生きながらにしてもっとも神聖な人間」である。以下、「ミカド」の生活様式について見てみよう8

  • 「彼が地面に足をつけることは、不面目きわまる零落と考えられた。」
  • 「戸外の空気にこの聖なる人間を曝すなどもってのほかであり、日の光はその頭に降り注ぐ価値などないと考えられている」
  • 「身体のあらゆる部分に聖性が宿ると考えられているため、あえて髪を切ることも髭を剃ることも爪を切ることもしない」
  • 「太古の時代には、彼は毎朝数時間……(中略)……ただ像のようにじっと座っている。手足も頭も目も、それどころか身体のいかなる部分も動かすことはない。これは、自らの領土の平和と安定を保つことができるのは彼自身と考えられたからで、不運にも体の向きをどちらかに向けたりすれば、……(中略)……なんらかの大きな災いが間近に迫っている」
  • 「彼が食べるものはなんでも、新しい器で調理された」

 最後の項目については説明が必要だろう。なぜ皿が毎度あたらしくなるのかというと、俗人が万が一ミカドの使った聖なる皿で食事をすれば、その口と喉は膨れ上がり、燃え上がると信じられていたためだ。それを防ぐため、皿は食事ごとに使い捨てられた。またこれは衣服についても同様で、ミカドの神聖な衣服を俗人が身につけると、体のあらゆる部分が膨れ上がり、痛みだすという9

 つまり、神聖な王は、「祝福の源であると同時に、危険の源でもある」のだ。守られるべき存在であり、また避けられるべき存在でもある。彼が動けば世界が動き、彼が弱れば世界も弱る。あまりに危険すぎる存在だ。たとえばそれは漫画「AKIRA」に登場する少年アキラのごとき存在であって、神聖な存在であると同時に、その強大な力にくらべてあまりにも繊細すぎる、もろすぎる。
 「神聖」であることと「禁じられている」ことの間には、通常思われているほどのちがいはないのだろう。われわれにそれを本質的に区別することが、はたしてできるだろうか。もし、先に述べたミカドの衣服や食器についての規範が、ミカドに対するものだと知らされずに与えられたならばどうだろう。

  • 「彼」が使った皿で他の者が食事をすれば、その口と喉は膨れ上がり、燃え上がるから、皿は食事ごとに使い捨てなければいけない。
  • 「彼」が着用した衣服を他の者が身につければ、体のあらゆる部分が膨れ上がり、痛みだす。

 この描写では、「彼」は聖なる存在というよりはむしろけがれた存在に見える。その穢れがものを通じて他者ヘ影響を及ぼさないように、このような規定が設けられているかのように――。これほどに、聖なるものと穢れたものの扱いは外形的には区別しがたい。神聖だから隔離されているのか、それとも穢れているから隔離されるのか。こんな物語も考えられそうだ;
蒼然たる森の奥深く、誰も立ち入ることを許されない神域に祀られている存在があった。神官も俗人も、その存在の聖なるがゆえに祖先は立ち入りを禁じたのだと思っていたが、実はその存在とは邪悪なものだったのだ……。
 さて、判断のつきにくさはともかくとして、「聖なる存在」当人からすればこのような扱いはたまったものではない。

この種の王は……(中略)……禁止と戒律の網の目に取り囲まれているのであり、それが意図しているのは、彼の権威に寄与することではなく、ましてや彼の慰安に寄与することではない。むしろ、自然の調和を乱し、彼自身のみならず人々を、さらには宇宙を、全面的な破局に陥れる振る舞いから、彼を遠ざけることが意図されているのである。彼の慰安に寄与するどころか、これらの戒律は、あらゆる行動を束縛することにより彼の自由を抹消し、人々にとっては守るべきものとしてある彼の命自体を、しばしば本人にとっては重荷と悲しみに過ぎないものへと、変えてしまうのである。

ちくま学芸文庫「初版 金枝篇 上」第二章第一節 p170

 王は、ときに哀しい。

  1. フレイザー卿は、i. フィールドワークをしないこと ii. 「野蛮人」が「文明人」より「進歩していない」と考えるところ において反-レヴィ=ストロース的で、現代から見ると批判されるのはまあ当然といえば当然である。
  2. スコットランド北東部。
  3. イタリアの村。現在でいうローマ県に属す。
  4. ちくま学芸文庫から初版「金枝篇」が上下巻で出ていて、多くの人はこれを読んでいると思う。正直これでもかなり長く感じるので、原著の全13巻というのはまったくおそろしい。
  5. 雷鳴の物真似。
  6. ちくま学芸文庫「初版 金枝篇 上」第一章第二節 p34。
  7. 「内裏」であろう。
  8. ちくま学芸文庫「初版 金枝篇 上」第二章第一節 p165-166、第二章第三節 p233。
  9. これを読んだ日本人は「おいおい、天皇っていうのはこんなんじゃないぞ」と思うかもしれないが、まあ金枝篇というのは全編この調子なのである。ヨーロッパの伝承についてはもう少し真実に近いことが書かれている……と思いたい。