あらすじ、と余談
ぼくが「ソラリス」をはじめて手にとったのは大学の図書館で、「水に関する本特集」コーナーにおいてあったからだと記憶している。今にして思うと「ソラリス」を水特集におくのはかなりの拡大解釈だが1、おかげさまでこの本を手にとることができたわけである。まず、ざっとあらすじを述べておくことにしよう。
あらすじ
惑星ソラリスは奇妙な公転軌道をもっている。その原因は、全体としてある種の生命である、巨大な海だった。主人公ケルヴィンは今やさびれてしまったソラリスの基地に派遣されるが、先任者のギバリャンは自殺をしており、ほかの研究員、スナウトとサルトリウスもどこか様子がおかしい。スナウトはこのステーションには人間ではない何かが存在することを示唆する。
それが何であるのかはケルヴィンにもすぐ判明する。あるとき目を覚ますと、過去に自殺した自分の恋人、ハリーが、生前と瓜二つの姿であらわれたのだ。スナウトらはこれをソラリスの海がおくりこんでくる「お客さん」と呼ぶ。「お客さん」は、ときに人間ではありえないような力を発揮し、たとえ排除してもふたたび現れる。何より「お客さん」は、当人に愛憎半ばする重苦しい感情を抱かせるひとの姿をとってあらわれるようだ。主人公ケルヴィンも先任者たちと同様に、ソラリスの海がもたらす現象にとらわれていく……。
鏡地獄のような疑似恋愛
誰にとっても、わだかまりを抱えながらにしか対峙できないひとというのはいるものだ。これは単にその人が嫌いだというのとは話がちがっている。主人公ケルヴィンの前にあらわれた「お客さん」が、自殺した元恋人・ハリーであるというのはその一番わかりやすい例であろう。ある人間が、もっとも屈折した感情を抱くひと。ソラリスの海は「それ」を送り込んでくる。
この「お客さん」は誰にとっても破滅をもたらすものだが、なぜそうなるかというと「お客さん」がさまざまな記憶を、とくに人間関係が破綻したときの記憶をうしなっているからである2。「お客さん」は、客を迎えるその人に対して好意を、ときには好意以上のものをもっている。
これがどういうことかというと、「お客さん」は、うまくいったかもしれないという幻想をわれわれに見せる。あの時、あんな言い方をしなければ、こうしていれば、避けられたかもしれない破局、その破局を切り抜けたときいう夢をわれわれに見せてくる。
だが夢をみることが常に快いことであるとは限らない。主人公ケルヴィンにとってこの状況は最悪である。「お客さん」はハリーと寸分違わない姿をしているが、彼女には記憶がない。来歴がない。ただ、己の感情や願望がそこに投影されていく。そんな「お客さん」にいくら愛されたところで、それは死体を相手とした腹話術遊びとなんら変わるところがない。夢は、悪夢であった。
作中で、多くの者は「お客さん」を殺害することを試みる。その決断が横暴なものであるとは誰にも言えないだろう。
ソラリス学
「……ソラリス・サイバネティクス学者とソラリス・シンメトリー学者の間では、ほとんど話が通じなくなっていた」
本書2章「ソラリス学者たち」より
この小説は、ここまで述べてきたような人間の内面をえがいたものであるとともに、アカデミックな匂いを漂わせている。惑星ソラリスについての学問体系がこまかく描写されているのがその一因だ。主人公ケルヴィンは2章でヒューズとユーグルの共著による「ソラリスの歴史」第二巻を手にとる。
ソラリスが発見されたのはケルヴィンが生まれる100年ほど前のことである。ソラリスはふたつの太陽――赤色と青色――のまわりを回っており、当時ガモフ=シャブリーの理論によって、二重太陽のもとで生命が発生することは不可能だと思われていた。さらに、ソラリスは軌道のずれにより最終的には太陽に落ち込むと予想された。しかしソラリスの軌道は理論とは異なっていることがのちに判明し、その発見の4年後にはオッテンスキョルドの探検隊が……
という調子で、ソラリスがいかにして発見され、ソラリス研究がどのように進展し、やがて放棄されていったか、ということが小説中で述べられているのだ。ぼくはこのような描写に心が躍るタイプなのでたいへんうれしい。架空の学問体系、架空の名著。 「原形質状機械」「種――ポリテリア、目――シンキティリア、綱――メタモルファ」「アインシュタイン=ポエヴィの理論」「存在論的自己変容(メタモルフォーゼ)」「白痴の海」「ヨガ行者の海」など、ほかにも魅力的な記述がいろいろ出てくる。ここに紹介できたのはそのほんの一部にすぎない。
原形質の表情
また、冒頭にDominique Signoret氏によるイラストを掲げたが、ソラリスの海はこの絵のような――数学的な背景をもった――構造を作り出す。作中ではギーゼという学者の金字塔ともいうべき研究が紹介されており3、それによると、ソラリスの海は
- 「山樹」
- 「長物」
- 「キノコラシキ」
- 「ミモイド(擬態形成体)」
- 「対称体」
- 「非対称体」
- 「脊柱マガイ」
- 「長物」
など、さまざまに命名されたかたちを作り出す。ギーゼは「ミモイド」の研究に学者としての一生をささげた。ミモイドは複雑な成長過程をたどるが、ソラリスを飛ぶ探検隊の飛行機やヘリコプター、実験のために持ち込まれた彫像などに刺激され、そのコピーをかたちづくることがある。4
冒頭のイラストは「対称体」を描写したものである。作中で対称体は、
- 高次方程式の三次元的展開
- 非ユークリッド幾何学の親類
- 数学的体系の数立方マイルに及ぶ展開
- 海が計算を実行するためのモデル
と述べられており、この中では物理法則さえゆがんでしまう(屈折率の増大/減少、重力のリズミカルな変動、等)ことがある。ギーゼは70歳のとき106人の人々とともに対称体に呑み込まれて亡くなった。
原形質の構造についての描写は、小説全体をとおして最も難解なところだが、レムの科学に対する素養の高さがうかがえる箇所でもあるといえよう。
映画「惑星ソラリス」
タルコフスキーによる映画「惑星ソラリス」は、ちょうど原作から主人公ケルヴィンとその妻ハリーの関係だけを抜き出し、海との数学的なコンタクトといったような部分は捨てさった作品になっている。原作者レムは満足していないようだが、それには関係なく名作であると思うし、世界的にも評価が高い5。ぼくはDVDと映画館で一回ずつ見ました。
最初のシーンが地上を舞台に展開されていたり、有名な話だが日本の首都高速道路がロケにつかわれていたり6と原作とは異なる部分が多々あるが、そこは名手タルコフスキーで大きく外してはいない。これ宇宙も科学も関係ないよね、タルコフスキーがいつもやってる人間の話だよね、という批判はあってしかるべきだと思うが、まあタルコフスキーなりの誠意は感じる作品になっている。人ならざる海、巨大な原形質生物と人間はコミュニケーションをとることができるのか、みたいなところにフォーカスするとぜんぜん別の映画になっちゃうしなあ。それこそがレムの望んでいたものなんでしょうけど。
この映画もタルコフスキーの他の映画と同様にラストシーンが美しいが、それと同時に、この海は地獄だ、という気持ちを深く呼び起こされる。願望器はつねに災厄をもたらす。
ソラリスは2002年にもスティーヴン・ソダーバーグによって映画化されているが、ぼくはまだ見たことがない。主役がジョージ・クルーニーだという。
BWV639-Ich ruf zu dir, Herr Jesu Christ
この映画ではバッハのオルガン曲(BWV639)が印象的につかわれている。荘厳で息苦しいような、かと思えば安らぐような、なんともいえず巧妙な選曲である。ソ連の電子音楽家Eduard Artemyevによって演奏されたものがつかわれている。
こんな人におすすめ
- 自分にも「お客さん」がいるというひとすべて