序: 憂鬱と理想
末法の世が生み出した
ボードレール 「悪の華」 憂鬱と理想 一八 理想
出来損ないの産物の、さしえの美人、
ハイヒール穿いた足、カスタネット鳴らす指、
あんなのは絶対に僕を満足させません。
ところで、あなたはオタクだろうか1。そもそもオタクを定義することはむずかしいし、ゼロ年代2ごろとは状況が大きく異なっていて、「オタク像」というものが正体をうしない、拡散しつつあるのでこれは更に難しくなっている。果たして、このようなものの全体について語ることなどできるのだろうか。ここではひとまず、マニアとオタクのちがいについて述べて理解の助けとしよう。
マニア的な対象とオタク的な対象
オタクとマニアのちがいは愛好する対象の実在性/虚構性の如何にある。
マニア的対象の例は、
- 切手
- カメラ
- オーディオ
- 天体観測
- 車
など。オタク的対象とマニア的対象の境界に位置するものは
- 鉄道
- パソコン
- 映画
- 漫画
- アイドル
- ディズニー3
などなど。いっぽうオタク的な対象はというと、
- アニメ
- 声優
- 地下アイドル
- 特撮
- 同人誌
などが挙げられる4。
まずマニア的対象からくわしく見ていこう。
マニアは彼らが所有するものを誇り、その実在性・ものとしての有効性5を誇る。ひとつカメラを例にとれば、マニアにとってカメラという機材そのものはそれによって撮られる写真以上に重要な意味をもつ。画素数はいくらなのか、ISO感度はどこまで高められるのか、AFはどれほど高性能なのか、そういったことがしばしば語られる。
機械式カメラにおいてはこのような傾向はさらに顕著で、たとえばLeica M3などはファンからものとして崇拝にちかい扱いを受けている6。これを超えるレンジファインダーカメラがあらわれることはないだろう。
一方でオタク的な対象の愛好のしかたというのがあって、ここでは実在性は重要な意味をもたない。たとえばアニメを例に取ると、あるアニメのファンであるためにそれのグッズを持っていたりDVDやブルーレイ7を持っていることは必ずしも重要ではない8。全話を視聴済みであればその資格は十分だろう。
ここで真に必要とされているのは、そのアニメについて存分に熱狂9できることである。つまりオタク性とは、何かを持っていることではなく、何かを語りうることそのものによって担保される。オタクは言語的な存在である。彼らは熱狂というコードで他者と交信する。ある作品のグッズをすべてコレクションしている者よりも、その作品について圧倒的な熱量をもって語り、深い考察を述べることができる人物のほうが尊敬を勝ち得るというのはいたってオタク的な現象だ。
ではオタクは何ものをも所有しないのだろうか。実際のところそうではない。彼らは虚構的にそれを所有する。具体的に述べてしまえば、それは同人誌やSS、イラスト、ネタ動画といった二次創作の手続きによってなされる。ここでぼくは何も、二次創作をしないものはオタクではないといういささか偏った意見を述べているわけではない。二次創作を実際に行うかにかかわらず、原作にはないシーンを夢想してみたりすること自体が所有の手続きとなる。マニアとは異なり、オタクは虚構においてそれを所有することができれば物理的な所有を必要としないということだ。
作者の死
テクストとは多次元の空間であって、そこではさまざまなエクリチュールが、結びつき、異議をとなえあい、そのどれもが起源となることはない。テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物である。
ロラン・バルト「物語の構造分析」
ところで、「公式と解釈違い」といわれるような事態はまさにオタクの性質を象徴している。バルトがいみじくも「作者の死」で述べたように、テクストは作者の手を離れたものとして存在する。あらゆる作品は、意図された解釈をされないという事態を免れられない。
それでも、ものとしての性質がつよい作品はある程度それを緩和することができる。たとえば、クリムトの絵画「アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I」は、それ自身が156億円10の価値をもったものであることによって虚構化に強く抵抗する。
しかしオタク的な対象は意図された解釈をされない。それは虚構化(二次創作)の手続きによってひとりひとりに所有されてしまっているので、作者の存在は大した意味をもてない。「公式」が絶対的な権限の持ち主ではありえない11のはある意味で必然であろう。
3つの立場
一人だけで賢明であるより、みんなとともに気が狂うほうがましだ。
バルタザール・グラシアン「神託必携」
斎藤環によると、人はオタク的なものを語るとき
- みずからをオタクと規定し、徹底して内在的に、つまりあえて無批判に語る。
- 嫌悪感と排除の論理で対峙する。
- 「オタク」のオタクになる。
のいずれかの立場しか取り得ないという12。
1. の立場がどういうものであるかは明白だ。2. の立場は一見するとオタクから遠いもののようでいて、実際には自己に向けられた攻撃性の変形であったり、愛の表現であったりする。
ここでは3. の立場について語ろう13。
「「オタク」のオタク」になるということは、「オタク」をメタ的な立場で、内部のオタクと同じような方法論を用いて論ずることに他ならない。「「オタク」のオタク」は、オタクが対象を愛好するように、オタクカルチャー全体を対象にとってそれを愛好する14。
このような「「オタク」のオタク」は、何よりも「メタ的な立場」と「えらい」ということの混同に注意するべきだ。みずからがメタレベルに立っているからといって、内部レベルのオタクに優越する地位を確保しているということにはではない。いざというときに「内部に入って熱狂する」ことができない人間はどうにもならない。彼らは――我々は、と言うべきか――メタレベルと内部レベルを自在に行き来できるしなやかさをもつ必要がある。もちろん外部からしか分析できないことがあるのは当然だが、内部には内部なりの豊かな構造がある。それを見落とすことがあってはならない。
跋: それでも足りない
夜のように鳶色で、麝香と葉巻の混り合った
ボードレール「悪の華」 憂鬱と理想 二六 それでも足りない
かおりを立てる風変りな女神よ、そんじょそこらの黒人の
魔法使の手に成った大草原のファウストよ、
黒檀の脇腹をした魔女よ、暗い夜更が生んだ子よ、……
この文章は明らかに欠けているところがあって、それはオタクのセクシュアリティに関することだ。虚構に対して向けられる性欲と、一方で多くのオタクが歪んでなどおらず健全なセクシュアリティを持ち合わせている事実はどのように考え合わせるべきだろうか。このことは語られなければいけないが、今はもうそうしている時間がない。
- こんな記事を書いているのだからそもそも「筆者はオタクなのか?」という質問に答えなければいけないのだろうが、これに答えることはなかなか難しい。昔は確かにオタクだったが、今はそうではないし、いつからそうでないかはもう忘れてしまった。
- かっこいい言葉だ。ぼくは95年生まれなのであまりゼロ年代にコミットしているわけでもないが、郷愁をこめて使ってみた。
- 著作権にきびしく、ディズニーランドというものが存在するディズニー文化は、じつはオタクとかなり親和性が低い。「ディズニーオタク」を名乗る人もいるが、この記事で言うようなオタクとは少々意味合いが異なると思う。
- この分類は斎藤環「戦闘美少女の精神分析」にある。
- 切手収集とかいいオーディオシステムを構築するだとかは社会的には道楽とみなされがちなのだが、マニアの間ではたしかに有効である。
- 工業製品――工芸品ではなく――がここまで高い地位を獲得することにはなんだか倒錯的な快感がある。
- 5年後ぐらいに読み返したときに「DVD笑 ブルーレイ笑」ってなりそうでちょっと心配です。
- グッズや円盤を持っているならばファンであるにちがいないが、ファンであるならばグッズや円盤を持っているとは限らない。
- ただし、この熱狂には演技性があることを見落としてはならない。
- 1億3500万ドル(当時)。
- もちろん法的には様々な権利を持っているだろうが、ここまで述べてきたような理路において。
- 「戦闘美少女の精神分析」にある。
- この文章じたい3. の立場で書かれている。
- ちょっと変な用語法かもしれないが、オタクが熱狂しているようなその場を「内部レベル」と呼び、その外側にある場を「メタ的な立場(メタレベル)」と呼ぶことにする。