ロシアに、スコプツィ(скопцы、去勢派)というキリスト教の異端がある。開祖はセリヴァノフ(Селиванов)という男で、逃亡農奴だった彼は、はじめフルイスト派(хлысты)1というこれまたキリスト教の異端に属し、やがて自分のセクトとしてスコプツィを独立させた。18世紀も終わりのころであった。
スコプツィの最大の特徴は、キリスト教のいう純潔の要請を物理的な去勢――男性であれば生殖器の切除、女性であれば胸や陰唇を切り取ること――によって実現しようとするところにある。
フルイスト派について
スコプツィの教義を説明するためには、まずフルイスト派について説明する必要がある。ロマノフ朝の時代、ロシア帝国はロシア正教会を国教としてきたが、ニコン(1605-1681)の宗教改革に反発する人々によって主流から古儀式派が分離2した。これはその名の通り、ニコンによる祈祷書や儀式の統一に反対して古いやり方を固持しようとした保守派の人々である。ニコンの改革はギリシャ正教会のやり方に沿ったもので、それを保守派は正しい信仰からの逸脱と捉えた。古儀式派はさらに司祭派と無司祭派にわけることができ、フルイスト派はこの無司祭派から18世紀のはじめに分かれた3。
フルイスト派はカラーブリ(船の意)と呼ばれる小集団にわかれており、各カラーブリにつき生神女4やキリストがいるのが慣例であった5。儀式としてはラジェ一ニエとよばれる激しい輪舞を特徴とし、信者たちはそれにより陶酔にいたって預言をものしたりする。また禁欲主義の要素もつよく、肉食・飲酒・夫婦の交わり等は厳しく制限されていた。
補遺:善悪二元論と古儀式派の思想的な類似
去勢教スコプツィ
そしてフルイスト派からスコプツィが誕生する。教祖のセリヴァノフは、放浪の後にアクリーナ・イヴァーノヴナという生神女のカラーブリと関係をもち、やがて独自の集団を形成するようになった。それがスコプツィである。
くわしいセリヴァノフの生涯についてはリンク先を参照してほしい。
もとのフルイスト派とスコプツィをくらべたとき、大きな違いはなんといっても、純潔の要請を物理的な去勢の実践として解釈したことである。セリヴァノフはフルイスト派において禁欲が徹底されていないこと、またラジェーニエ(輪舞)においてある種の性的絶頂がともなうことを問題視して彼らと袂をわかった。これは、小集団が並立するフルイスト派から、セリヴァノフを頂点としてよく組織された教団が頭ひとつぬけたことをも意味している。
去勢の実態